中世の神楽
鎌倉〜室町・戦国時代
平安時代に宮中で形が整った神楽は、中世に入ると祈祷の場で使われるようになり、各地の神社や集落へも広がっていきました。担い手は神職に限らず、山伏(修験者)や巫女もいました。[1]
臨時の神楽
宮中の御神楽は毎年12月の恒例行事でしたが、特別な祈りが必要なときには、臨時の神楽も行われました。弘安4年(1281年)には異国の征討を祈って、室町時代には天皇の病気平癒を願って臨時の神楽が催され、三夜にわたることもありました。[1]
戦国時代までに途絶えてしまった祭祀の音楽もあるなかで、神楽だけは途切れることなく受け継がれたとされています。[1]
湯立神楽と霜月祭
中世の「湯起請」は、神の意思を問う占い「問湯」の流れをくむもので、「湯立」とも呼ばれました。[2]いっぽうで巫女舞や湯立神楽、霜月神楽は、湯立の儀式が民俗芸能として育ったものとされています。[2]
湯立神楽のひとつ、長野県の「遠山の霜月祭」については、鎌倉時代、遠山谷が鶴岡八幡宮の社領だったころに持ち込まれた荘園の儀礼が起源だとする説が有力です。[3]愛知県奥三河の「花祭」も、700年以上続く伝統芸能とされます。[4]どちらも、冬の夜に釜の湯を囲んで行われる神楽です。
湯立神楽を広めたのは、伊勢神宮外宮の御師だとされます。[1]伊勢流の湯立神楽は、のちに伊勢では途絶えてしまいましたが、各地の霜月神楽などにその姿をとどめています。[1]
能との関わり
中世は、能が大成した時代でもあります。神楽は能の舞事のひとつにもなり、応永30年(1423年)の『三道』には能の神楽についての記述があります。[1]逆に神楽の側も、能や田楽、猿楽の要素を取り入れました。里神楽はもともと神官や巫女の神がかりによる鎮魂と託宣でしたが、やがて田楽や猿楽を取り込み、出雲流などの形が生まれたとされます。[1]
出雲流神楽のはじまり
島根県の佐太神社に伝わる「七座神事」と「神能」は、出雲流神楽のもっとも古い典型とされ、成立は中世の終わりから近世の初めごろと考えられています。[1]佐太神社には、永正9年(1512年)に島根郡と秋鹿郡の神職が「御座之祭」を行ったという記録が残っています。[5]
高千穂の古い記録
宮崎県の高千穂では、1189年の古文書にある「七日七夜のごじんらく」が、神楽にあたる言葉の初出とされています。[6]1460年の文書には「神楽」という語も見られます。[6]研究者は、高千穂の神楽が成立したのを、平安時代の終わりから源平の時代(12世紀後半)にかけてと推定しています。[6]