近世(江戸時代)の神楽

江戸時代

江戸時代は、神楽が神社の儀式から、より身近な芸能へと広がっていった時代です。各地で独自の形が整い、いまの神楽の原型の多くがこのころにできあがりました。

佐陀神能と出雲流

慶長13年(1608年)、佐太神社の幣主祝・宮川兵部少輔秀行が京から能楽の形式を持ち帰ったのが、「神能」の始まりとされます。[1]それから明治維新まで、秋鹿・島根・楯縫の各郡と意宇郡の西半分の社家が佐陀大社に集まり、この神事を奉仕しました。[1]

七座神事は面をつけずに採物を持って舞う舞、式三番は能の「翁」にあたる祝言の舞、神能は面をつけて神話を演じる劇です。[1][2]能のような神話劇と素朴な採物の舞をあわせ持つ出雲流は、各地の神楽に影響を与えました。[3]

伊勢の太太神楽と、里神楽

「太太神楽」は、もともと伊勢神宮に奉納する神楽を、お礼(報賽)の大小で分けた等級の名前でした。のちに奉納神楽そのものの美称となり、伊勢から各地へ広まっていきます。[3]広まった先では、出雲流の内容が多く取り入れられました。[3]

民間で行われる神楽を指す言葉が使われ始めたのも、この時代です。辞典は、諸社や民間の神楽という意味での用例として、寛永15年(1638年)の『毛吹草』を挙げています。[3]江戸では里神楽が発達し、神話をせりふのない劇(黙劇)に仕立てた舞が演じられました。[3]

江戸時代の終わりごろになると、寄席では神楽よりも、演芸色の強い太神楽の曲芸がよく演じられるようになりました。[4]

備中神楽の誕生

岡山県の備中地方では、古くから荒神に奉納する「荒神神楽」が行われていました。猿田彦の舞や剣舞が中心で、担い手は神職だけでした。[5]文化・文政年間(1800年代前半)に、高梁市出身の神官で国学者の西林国橋が、神話を題材にした神代神楽を加えて、いまの形を完成させたとされます。[5]能・狂言・歌舞伎の要素を取り入れて芝居としての面白さが増したことで、神職以外の神楽太夫も奉納するようになりました。[5]

各地に残る、江戸時代の記録

神楽地域できごと
佐陀神能島根県松江市1608年(慶長13年)、能楽の形式を取り入れた「神能」が始まったと伝わる
太太神楽伊勢から各地へ伊勢の奉納神楽から広がり、出雲流の内容を多く取り入れた
江戸の里神楽東京神話をせりふのない劇(黙劇)に仕立てた舞が発達した
備中神楽岡山県文化・文政年間に西林国橋が神代神楽を加え、いまの形を完成させた
高千穂の神楽宮崎県高千穂町1754年の古文書に「夜神楽」の語が見られる
庄内神楽大分県由布市1778年(安永7年)、社家衆が神楽を奉納した記録が残る
遠山の霜月祭長野県飯田市江戸時代に面の行道が加わったと考えられている

宮崎県の高千穂では、1754年の古文書に「夜神楽」という語が見られます。[6]大分県由布市の庄内神楽には、1778年(安永7年)に社家衆が神楽を奉納した記録が残っています。[7]長野県の遠山の霜月祭では、面をつけた神々が列をなして歩く「面の行道」が、江戸時代に加わったと考えられています。[8]

この時代に整った神楽の多くは、神職や山伏、巫女などによって受け継がれました。[3]その姿が大きく変わるのは、次の明治時代です。

出典

  1. 佐陀神能(Wikipedia) ↩
  2. 第12回市史講座ミニレポート「松江の芸能」(松江市) ↩
  3. 神楽(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典ほか)(コトバンク) ↩
  4. 神楽(Wikipedia) ↩
  5. 備中神楽(Wikipedia) ↩
  6. 高千穂の夜神楽(Wikipedia) ↩
  7. 庄内神楽(Wikipedia) ↩
  8. 遠山の霜月祭(飯田市) ↩

確認日: 2026年10月20日。上の辞典や公的な情報をもとに要約しています。神楽の起源や年代には諸説あります。